普段子どもたちの冒険活動「あおぞらきっず」で大切にしていきたいと思っている、冒険心や探索心。
気付きや発見、挑戦や失敗に試行錯誤する子どもたちの姿を大切に見守っていこうと日々活動を行っています。
さて、本日は本の中から、なるほどなと思ったところをPICK UPします!
こちらは保育園での環境論ではありますが、自然の中で子どもたちと関わる以上、全く関係のない話ではありません。
冒険心や探索心を子どもたちの心から知らぬうちにかき消してしまわぬよう、注意深く関わっていきたいと改めて考えさせられるのでした。
例えとして花が挙げられていますが、花に限らず、考え方として心の中に持っていたいものです。
以下、「大地保育環境論」より抜粋文章になります。(多少、文章を短くしています。)
「子どもの立場 大人の立場」
子どもの立場と大人の立場では、随分と保育環境の見方も違います。
子どもと大人の食い違いについて考えておかなければなりません。
子どもが好んで遊ぶ場所が、大人たちにとっては汚くて許せないというような場合がしばしばあります。
どろんこ、水・・・
大人の都合と常識は、子どもの真剣に遊ぶ姿と往々にして鋭く対立します。
その結果、あれはだめ、これはだめ、言うことを聞きなさい・・・
冒険心や探索心は抑えられて、大人に取って都合の良い、素直な子ども像が作り上げられるのです。
しかし、それは主体性の消えた、依存的な子どもが作り出されたことなのです。
喜ぶべきことではありません。
どうか、机の中を引っ掻き回しても、すぐに鍵などかけないでほしいものです。
花を1本や2本摘んだからといって、叱らないでほしいのです。
その花が欲しかったのです。その花に感動したのです。
その花を刻んでままごとのごはんに振り掛けたかったのです。
花とその子の濃密な関係が結ばれようとしているときなのです。
花を摘まない子は、花を振り向きもしない子どもなのです。
花を愛する人は、やはり花を摘むのです。
そうだとすると、保育者は考えを変えなければなりません。
許される限り摘んでもよい花を植えること。
春にはレンゲやクローバー、夏にはオシロイバナ、秋にはコスモス。
これなら多少子どもが遊びに使ったとて、ニコニコと見守ることができるでしょう。
約束さえしておけば、子どもたちはちゃんと心得ていて、他の花をむやみに摘んだりすることはしません。
保育環境とは、こうした立場から再考されなければならないのです。